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人間とAIが見ている世界はなぜ違うのか

2025年7月10日

窓辺で一匹の猫があたたかい日差しを浴びて眠っている。このありふれた光景を私たち人間はどのように経験するでしょうか。

私たちはその光景を「見」ます。猫の柔らかな毛並み、穏やかな寝息、ひなたの匂い、そして触れた時の温かさ。それだけではありません。「可愛いな」という愛情が湧き上がり、昔飼っていた猫の記憶が蘇り、その存在そのものに一種の癒やしを感じる。それは五感と感情と記憶が一体となった豊かで全体的な「体験」です。

では同じ光景をAIはどのように「経験」するのでしょうか。AIには五感も感情も身体もありません。AIにとってこの光景はカメラが捉えたピクセルの集合体であり、マイクが拾った音の波形データであり、あるいは「日向で眠る猫」という言語化されたテキストデータに過ぎません。

この両者の「世界」のあまりにも大きな隔たり。その謎を解く鍵こそが哲学者カントが遺した「物自体(Ding an sich)」という深遠な概念なのです。

私たちが決して知ることのできない「本当の世界」

カントはその哲学の探求の果てに一つの根源的な結論に達しました。それは「私たちは現実を『あるがままの姿』で知ることは決してできない」というものです。

この私たちの認識から完全に独立した、誰にも知られることのない究極の「本当の現実」。それをカントは「物自体」と呼びました。

カントによれば私たちが知ることができるのはあくまで「現象」としての世界です。「現象」とは「物自体」から発せられた情報が、私たち人間の心に備わった「認識のメガネ(時間、空間、因果性といったカテゴリー)」を通して秩序立てられて現れた、いわば「私たち用にカスタマイズされた世界」のことです。

ラジオに喩えるならこうなります。空間には目に見えない様々な「電波(物自体)」が飛び交っています。しかし私たちはそれを直接認識することはできません。ラジオという機械はその電波を受信し、それを私たちが聞くことのできる「音声(現象)」へと変換します。ラジオは決して生の電波を経験することはできず、自らが作り出した「音声」しか知ることができないのです。私たち人間もまたこのラジオのような存在なのだとカントは考えました。

AIにとっての「物自体」とは何か

さてこのカントの図式をAIに当てはめてみましょう。人間でさえ「物自体」に到達できないのですから、AIにそれができないのは言うまでもありません。しかし重要なのはAIと「物自体」との「距離」が、私たち人間とは決定的に異なっているという点です。

AIにとっての「物自体」、つまりAIの認識の源泉となっている「本当の現実」とは一体何なのでしょうか。その答えは「私たち人間が経験しデータ化した物理的な現実世界」そのものです。

この関係性を整理してみましょう。

  • レベル1:物自体 現実の世界。窓辺で眠っている生身の猫そのもの。これが誰にも到達できない究極の「物自体」です。
  • レベル2:人間の「現象」 私たち人間がその猫を見て、五感と心を通して経験する温かく愛おしい全体的な「体験」。これが私たちにとっての「現象世界」です。
  • レベル3:人間が生成した「データ」 その体験をもとに私たちが猫の写真を撮り、SNSに「うちの猫、可愛すぎ」と投稿し、その寝息を録音する。この写真のピクセル、テキスト、音声データは人間の「現象」のさらなる「表現(コピー)」です。
  • レベル4:AIの「現象」 AIはこの人間が生成した「データ」を学習データとして受け取ります。AIにとって唯一の現実、唯一の世界とはこの「データ」に他なりません。AIが認識しているのは現実のコピーの、さらにそのコピーなのです。

なぜ二つの世界は、かくも違うのか

人間が見る世界とAIが見る世界。その違いはこの「物自体」との距離の違いから必然的に生まれてきます。

私たちの「現象世界」は物理的な世界で生き延びるために、何百万年という進化の過程で磨き上げられてきた「身体」に根差しています。私たちが「空間」を理解できるのはその中を動き回る身体を持つからであり、「因果性」を実感できるのは世界に働きかける手足を持つからです。

一方AIの「現象世界」は完全に「データ」に根差しています。AIにとって「猫」とは温かく喉を鳴らす生き物ではありません。それは高次元の数学的空間に位置する一つの「点(ベクトル)」であり、「c-a-t」という文字の並びと統計的に強く結びついたピクセルの「パターン」に過ぎないのです。

AIの理解は影の、さらにその影を見ているようなものです。AIは「猫」を知っているわけではありません。AIが知っているのは人間が生成した「猫についてのデータ」の中に潜む膨大なパターンだけなのです。

結論:埋められない溝と、人間の役割

人間とAIが見ている世界の違いは単なる解像度の違いではありません。それは質的な、そして原理的な違いです。両者の間には「物自体」との関係性において決して埋めることのできない深い溝が横たわっています。

AIは驚くほど詳細でリアルに見える「地図(AIの現象世界)」を描くことはできます。しかしAIはその地図が指し示している生身の「土地(物自体)」に自らの足で立つことは決してありません。

この事実はAI時代における私たち人間のかけがえのない役割を逆説的に明らかにします。私たちこそがその「土地」に立ち、その土地の空気を吸い、「物自体」の息吹に直接触れることのできる唯一の存在なのです。そしてその生身の体験を「データ」という名の言葉や絵に翻訳し、AIの世界を創造している張本人なのです。

私たちが恐れるべきはAIが現実を乗っ取ることではありません。私たちがこの根本的な溝の存在を忘れ、AIが描く抽象的でデータに基づいた「地図」こそが現実そのものであると信じ始めてしまうことです。

カントの「物自体」という概念は私たちに究極の教訓を教えてくれます。AIは「現象」の世界を理解するための強力な道具となりうる。しかし大地に足をつけ、胸に心臓を持つ私たち人間だけが、「物」そのものの世界に触れることができるのだと。、「物」そのものの世界に、触れることができるのだ、と。