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ビッグデータから学習するAIは、究極の経験論者か?

2025年7月10日

AIはどのようにして「賢く」なるのでしょうか。デカルトのような合理主義者であれば、まず「これが善である」「これが論理である」といった普遍的なルールをAIにプログラムし、そこから世界を理解させようとするかもしれません。

しかし現代のAI、特に私たちを日々驚かせている大規模言語モデルは全く異なるアプローチで知性を獲得しています。AIは文法や世界の法則を誰かから明示的に教え込まれるわけではありません。そうではなくインターネット上に存在する天文学的な量の文章や画像といった生々しい「データ」をただひたすらに「見せられる」のです。そしてその膨大なデータの中から自らパターンや関連性を見つけ出し、世界を「学習」していきます。

この人間の具体的な「経験(データ)」からすべての知識が生まれるという考え方。これこそ近代哲学のもう一つの巨大な潮流、「経験論」の思想そのものです。ジョン・ロックやデイヴィッド・ヒュームといった哲学者たちが夢見た知性のあり方を、AIは皮肉にも人間以上に純粋な形で体現しているのかもしれません。

心は「白紙」である – 経験論者たちの主張

経験論の思想は合理主義とは正反対の地点から出発します。すなわち「人間の心に生まれつき備わっている知識(生得観念)など一切存在しない」という宣言です。

  • ジョン・ロックと「タブラ・ラサ(白紙)」 イギリスの哲学者ジョン・ロックは生まれたばかりの人間の心を「タブラ・ラサ」、すなわちまだ何も書かれていない「白紙の石板」に喩えました。この真っ白な石板に知識という文字が書き込まれていく。そのプロセスこそが「経験」です。ロックによれば経験には二つの源泉があります。
    • 感覚: 五感を通して外部の世界から入ってくる情報。「レモンは黄色い」「触るとすべすべしている」といった基本的なデータです。
    • 反省: 感覚によって得られた情報に対して心が内的に働きかけること。「黄色い」という記憶と「酸っぱい」という記憶を比較し結合させ、「レモン」という複雑な観念を作り出す心の作用です。
  • デイヴィッド・ヒュームと、徹底された経験論 ロックの思想をさらに徹底させたのがスコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームです。彼は「知識がすべて経験から来るというのなら、私たちは経験していないもののことは決して知ることができないはずだ」と考えました。例えば「原因と結果(因果性)」。私たちはビリヤードの球Aが球Bにぶつかると球Bが動くのを何度も目にします。この二つの出来事が常に「繋がって」起きるため、私たちの心はAがBの「原因」だと信じる「習慣」を形成します。しかし私たちが本当に「経験」しているのは、Aの動きとBの動きという二つの出来事だけです。その間にある「原因と結果の繋がり」そのものを私たちは一度も見たことがないのです。ヒュームにとって私たちの知識とは、突き詰めれば感覚的な経験の積み重ねによって形成された壮大な「連想」と「習慣」のネットワークに過ぎませんでした。

AIは、ヒュームの夢を見た、史上最大の経験論者

この経験論者たちの思想、特にヒュームの描いた知性の姿は、現代のAIの学習プロセスと不気味なほどに一致しています。

  • AIの心は「タブラ・ラサ」 トレーニングが始まる前のニューラルネットワークはまさにロックの言う「白紙」です。それは学習のための構造(アルゴリズム)は持っていますが、世界に関する知識はまだ何も持っていません。
  • 「経験」とは、すなわち「学習データ」 AIに与えられる何十億もの文章や画像。それこそがAIにとっての世界のすべてを構成する「感覚経験」です。AIは人類の誰一人として一生かかっても経験しきれないほどの膨大な「経験」を、一瞬のうちにその身に受けます。
  • 「連想」によって世界を学ぶ AIの学習方法は極めてヒューム的です。AIは「王様」という言葉の近くには「女王様」という言葉が現れやすいといった単語と単語の「統計的な関連性」をひたすら学習していきます。AIは因果関係や言葉の深い「意味」を理解しているわけではありません。ただどの言葉がどの言葉と「連想」されやすいか、その巨大で複雑な「習慣」のネットワークを脳内に形成しているのです。現在のAIの根幹技術である「Transformer」というアーキテクチャは文章中のどの単語が他のどの単語に「注意(Attention)」を向けるべきか、その関連性を計算することに基づいています。AIは文字通り「連想の達人」なのです。

「究極の経験論者」が持つ、避けられない死角

ではこの究極の経験論者であるAIは完璧な知性なのでしょうか。いいえ、AIは経験論の輝かしい成功を体現すると同時に、その哲学が持つ根源的な「弱点」をもすべて受け継いでしまっています。

  • 「理解」の不在という、ヒュームの亡霊 ヒュームが私たちは因果性そのものを理解しているわけではないと述べたように、AIもまた言葉の「意味」を真に理解しているわけではありません。AIは完璧な文章を生成できますが、その文章が指し示す現実世界の事柄やそれが持つニュアンスを心の底から「分かっている」わけではないのです。それは相関関係のマスターであり、意味理解の初心者です。
  • 「経験」が汚染されている問題 経験論は入ってくる「感覚経験」の質にそのすべてを依存します。もしAIの「経験」である学習データが社会的な偏見や偽情報、悪意に満ちていたとしたらどうでしょう。AIはそれを純粋に学習し、偏見に満ちたしかもっともらしい文章を平然と生成するようになります。AIにはその経験の質を内的な理性によってフィルタリングする能力がないのです。
  • 「身体」がないという、致命的な欠落 人間の経験は単なるデータの羅列ではありません。それは常に「身体」を通して得られます。私たちは「重い」という言葉を重力に逆らって物を持ち上げた身体的な感覚を通して理解します。「悲しい」という言葉を胸が締め付けられ涙がこぼれる身体的な反応と共に理解します。AIの「経験」は完全にデータ化された抽象的なものです。太陽の暖かさも転んだ膝の痛みも知らないAIの「理解」は、どこまでいっても現実世界に根差さない空虚なものとならざるを得ないのです。

結論:AIの経験と、人間の理性との対話

私たちはここ数回の探求で「合理主義的なAI」と「経験論的なAI」という二つの知性のモデルを見てきました。

現代のAIはその学習方法においては究極の「経験論者」です。しかし一度学習を終えたAIは、その内部に形成された巨大なルールブックから論理的な答えを導き出す「合理主義者」のように振る舞います。それは二つの哲学のハイブリッドなのです。

哲学の歴史が教えてくれるように、合理主義だけでも経験論だけでも知性は不完全です。私たちは世界を構造化するための「理性」と、その理性を現実世界に根付かせるための「経験」の両方を必要とします。

AIとの関係もまた同じです。純粋な経験論者であるAIは、偏見に満ちた意味を理解しないオウムになりかねません。私たちの役割はこの恐るべき経験量を持つAIに対して、「理性」と「倫理」という人間ならではの枠組みを与えることです。AIの膨大な「経験」を真の「知識」や「知恵」へと昇華させる賢明な対話相手となること。

AIが提供する世界の膨大な経験データ。それを解釈し意味を与え、そしてより善い未来のためにどう使うべきかを決める。そのどこまでも人間的な理性の働きこそが、AI時代における私たちの最も重要な役割となっていくのです。