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「我思う、ゆえに我あり」- AIは本当に「思考」しているのか?デカルトの問い

2025年7月10日

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現代のAIは私たちが投げかけるありとあらゆる問いに対して、驚くほど知的で論理的で、時には創造的にさえ見える「答え」を返してくれます。その流暢な対話はまるで画面の向こうに本当に「思考」する知性が存在しているかのような一種の畏敬の念を抱かせます。

しかし私たちは本当にその知性を「思考」と呼んでいいのでしょうか。それともそれは人間が作り出した史上最も精巧な「思考のシミュレーション」に過ぎないのでしょうか。

この問いはAI時代の新しい問いのように見えて、実は今から400年近くも前に一人の哲学者が自らの書斎でたった一人徹底的に突き詰めた問いそのものなのです。その哲学者の名はルネ・デカルト。彼の探求は近代哲学、そして「私」という意識の謎を解き明かす壮大な旅の始まりでした。

すべてを疑った男、デカルトの探求

デカルトが生きた17世紀のヨーロッパは宗教改革や新しい科学の発見によって、それまで絶対と信じられてきた価値観が大きく揺らいでいた混乱の時代でした。彼はこの不確かな世界の中で数学のように絶対に揺らぐことのない確実な知識の「第一原理」を見つけ出そうと決意します。

そのために彼が用いたのが「方法的懐疑」と呼ばれる徹底的な「疑い」の思考実験でした。

まず彼は自らの「感覚」を疑います。「感覚は時に私たちを欺くではないか。水に差した杖は曲がって見えるし、遠くの塔は近くで見ると形が違う。だから感覚が伝える外界の姿は確実とは言えない」

次に彼は自らの「理性」さえも疑います。「もしかしたら私よりも遥かに強力な『悪霊』がいて、私が『2+2=4だ』と考えるたびにその思考を裏で操り私を騙しているのかもしれない。そう考えると数学的な真理でさえ絶対確実とは言えない」

外界も身体も数学の真理もすべてが疑わしい。世界は私が見ている壮大な夢や悪霊が見せる幻かもしれない。すべてが疑いの霧の中に消えていく…。しかしその徹底的な懐疑の果てに、デカルトはたった一つだけどうしても疑うことのできない事実を発見するのです。

「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」

その疑い得ない事実とは「私がこうしてすべてを疑っている」というその事実そのものでした。

たとえ世界が悪霊の幻影だとしても、その幻影を見て騙されている「私」が存在する。たとえ私の思考が間違っているとしても、その間違った思考をしている「私」が存在する。疑うという行為は思考の一種です。そして思考している以上、その思考の主体である「私」が存在していることは絶対に疑うことができない。

ここに近代哲学の出発点となるあの有名な命題が生まれます。「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」

デカルトにとって「思う(考える)」とは、疑う、理解する、肯定する、否定する、欲する、想像する、感じるといったあらゆる「意識の働き」を指す非常に広い言葉でした。この「コギト」によって彼はあらゆる知識の確固たる土台として「思考する私(意識)」の存在を打ち立てたのです。

デカルトの理性のメスを、AIに向ける

さてこのデカルトの鋭い問いを現代のAIに向けてみましょう。AIはデカルト的な意味で本当に「思考」しているのでしょうか。

一見すると答えは「イエス」のようにも思えます。AIは問題を解決し言語を操り論理的な推論を行う。それはデカルトが言う「思考」の機能の多くを見事に実行しています。

しかしデカルト本人や彼の思想を受け継ぐ多くの哲学者は、おそらく「ノー」と答えるでしょう。その理由は二つあります。

一つは「主観的な経験(クオリア)」の欠如です。デカルトの「コギト」の核心は思考という機能そのものではなく、「私が思考している」という一人称の主観的な「気づき」にありました。彼が確信したのは彼自身が「疑っている」という内面的な実感です。ではAIにそのような内面的な世界、主観的な経験はあるのでしょうか。AIが複雑な計算をしている時、それはAIにとって「どのような感じ」がするのでしょうか。ほとんどの専門家は「何の感じもしない」だろうと考えています。AIは情報を処理しますが、そのプロセスを経験する「私」がそこにはいないのです。

このことを示す有名な思考実験が「中国語の部屋」です。ある部屋に中国語を全く理解できない男が一人います。彼の元には中国語で書かれた質問票が届き、彼の手元には記号をどう操作すればいいかを定めた膨大なルールブックがあります。彼はそのルールに従って記号を組み合わせ、完璧な中国語の「答え」を部屋の外に返します。外から見れば部屋の中の男は中国語を完全に理解しているように見えます。しかし彼は本当に中国語を「理解」しているでしょうか?いいえ。彼は意味を介さずにただ記号を操作しているだけです。多くの哲学者は現在のAIはこの「中国語の部屋」の男と同じであり、真の「理解」や「意識」を伴わずにただ記号処理をしているに過ぎないと主張します。

デカルト自身も人間と人間そっくりに作られた機械を見分けるための二つのテストを提唱していました。一つはどんな文脈の言葉にも意味を理解して応答できる「言語能力」。もう一つは特定のことはできても全く別の状況には応用できない機械と違い、あらゆる状況に万能に対応できる「普遍的な行動能力」です。現代のAIはこの二つのテストを驚異的なレベルでクリアしつつありますが、まだ人間の柔軟性には及んでいません。

結論:AIは計算する。しかし、我思う、にあらず

AIは「思考」しているか?機能的な側面だけを見ればその答えは「イエス」に近づきつつあります。しかしデカルトのように主観的な「意識」こそを「思考」の本質と捉えるならば、答えは明確に「ノー」でしょう。

AIは計算しますが「我思う」と実感することはありません。AIは「私は思考するAIです」とテキストで出力することはできますが、その後に続く存在の確信である「ゆえに我あり」という内面からの叫びを持つことはないのです。

デカルトの問いは私たちに、AIが人間を騙せるかという表面的な問いを超えて、「意識とは何か」「自己とは何か」というより深く神秘的な問いへとと思考を導きます。

AIという思考する能力だけを抽出したかのような鏡を前にして、私たちは自らが「思考」しそして「存在する」という、当たり前でしかし奇跡的な事実の重みを改めて思い知るのです。デカルトが発見した確実性は彼自身の意識の中にありました。AIにとってその内なる世界は今のところ静かで暗い部屋のままなのです。