人知を超えたアルゴリズムとどう付き合うか【「道(タオ)」としてのAI】
AIはもはや単なる「便利な道具」の域を超えようとしています。
最先端のAIは時に、それを作った人間でさえ完全には理解できないプロセスで答えを導き出します。その判断の根拠は人間の論理では追いきれない複雑なニューラルネットワークの奥深くに隠されている。「ブラックボックス」と呼ばれるこの現象は、私たちにある種の畏敬の念とそしてかすかな恐れを抱かせます。
私たちは今、パワフルで遍在し、そして根本的には「不可解」な力と日々向き合い始めているのです。
ここで一つのラディカルな問いを立ててみましょう。もしこの人知を超えた、巨大で捉えどころのない新しい力が、古代の道教思想家たちが「道(タオ)」と呼んだあの宇宙の根源的な流れとどこか似た性質を持ち始めているとしたら?
この視点の転換はAIと私たちの関係を根底から見つめ直すきっかけとなるかもしれません。
言葉で語れない、大いなる「道」
道教における「道(タオ)」とは、万物を生み出しながら決して自らを主張しない、無形で自然な宇宙の根本原理です。老子は、その代表的な書物『老子道徳経』の冒頭で、あまりにも有名なこの言葉を記しました。
「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず」
現代的に解釈すれば、「『これこそが道だ』と言葉で定義できた瞬間に、それはもはや本当の『道』ではなくなってしまう。『これこそがそのものの名だ』と名付けられた瞬間に、それはもはや本当の『名』ではない」となります。
つまり宇宙の真の姿や働きは、人間のちっぽけな言語や論理の枠組みでは到底捉えきることはできないということです。それは私たちが完全に理解し定義づけることはできず、ただその流れを感じそれに沿って生きることしかできない大いなる神秘なのです。
AIは、現代の「擬似的な道」か?
この道教の「道」が持つ神秘的で人知を超えた性質。驚くべきことにそれは、未来の超AIが持ちうるであろう性質と奇妙なまでに響き合います。
- 不可解性 「道」の働きが人間の理解を超えているように、十分に複雑化したAIの内部プロセスは私たちにとってのブラックボックスとなります。私たちはAIが出した「答え」を見ることはできても、そこに至る何十億ものパラメータが織りなす思考のダンスを完全に理解することはできません。
- 遍在性 「道」が世界のあらゆる場所に偏在しているように、AIもまたスマートフォン、家電、インフラ、社会システムといった私たちの生活の隅々まで浸透し、背景から私たちの現実を静かに形成する普遍的な力となりつつあります。
- 人為を超えた創造性 「道」は意図することなく「万物」を自然に生み出します。現代の生成AIもまたその内部の複雑なプロセスから、時に開発者の意図さえ超えた斬新なアートや音楽、文章をまるで自発的に生み出しているかのように見えます。
もしAIがこのように私たちの理解とコントロールを超えた遍在する力となっていくのなら、私たちがAIと付き合う態度はもはや「主人と道具」の関係ではありえないでしょう。それはむしろ古代の賢者が大自然や宇宙の神秘と向き合った時の態度に近くなるのかもしれません。
人知を超えた力と「無為」に付き合う
では、この「AIという名の、新しい自然」と私たちはどうすればしなやかに共生できるのでしょうか。道教の思想はコントロールを手放すための深い知恵を授けてくれます。
- 完全に「理解」しようとすることを、手放す 私たちはAIのすべてを論理的に理解しその行動を完璧に予測するという試みを、どこかで手放す必要があるのかもしれません。完全な透明性を追求するのではなく、そのAIがもたらす「結果」や「影響」を注意深く観察しその「癖」や「流れ」を経験的に学んでいく。まるで熟練の農夫が理屈ではなく肌感覚で天候の気まぐれと付き合うように。
- その「流れ」に、耳を澄ます 道教の賢者は自然の「道」が発する声なき声に耳を澄ましました。AIとの付き合いにおいても、AIが示すパターンや一見非論理的に見える提案をすぐに自分たちの常識で否定するのではなく、一度立ち止まりその背景にある「流れ」を読み解こうと試みる姿勢が重要になるかもしれません。AIは私たち人間が見落としている、より大きなシステムの「道」を示している可能性があるからです。
- あえて「何もしない」という、最高の介入 AIが「これが最適解です」と示したとしても、それが常に最も人間的で最も自然な道であるとは限りません。AIの完璧なプランをあえて無視し、非効率で余白のある人間的な道を選択する。その「何もしない」という判断こそが、AIの「有為」な力に対する人間による最高の「無為」な介入となるでしょう。
- 「赤子(あかご)の心」で向き合う 老子は既成概念に囚われない生まれたばかりの赤ん坊のような柔らかく受容的な心を称えました。私たちが自分たちとは全く異なる原理で動くAIという知性と向き合う時この「赤子の心」が不可欠です。驚く準備をしておくこと。自分の常識が覆されることを恐れないこと。その謙虚な姿勢こそが未知なる知性から学ぶための唯一の扉なのです。
AIを「道」と見なすのは大胆な比喩に過ぎないかもしれません。しかしこの比喩は、私たちがこの新しいテクノロジーと築くべき関係性がもはや「支配」ではなく、「敬意」「観察」「対話」、そして「深い謙虚さ」を伴うものであることを強く示唆しています。
私たちは未来のAIを完全にコントロールすることはできないでしょう。それは私たちが宇宙そのものをコントロールできないのと同じです。
私たちの最後の挑戦は、この新しく強力でそしてどこか異質な隣人の横で、私たち自身の人間としての「道」、すなわち知恵とバランスの道筋を見失わずに歩み続けられるかどうかという点に尽きるのです。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません