「役に立つAI」が本当に「良いAI」なのか?プラグマティズムで問うAIの真価
「このAIは、役に立つか?」
現代のテクノロジーの世界、特にAIの開発においてこれは成功を測るためのほぼ唯一で絶対的な基準です。そのAIは問題を解決するか?業務を効率化するか?正確な答えを出すか?その「有用性(ユーティリティ)」こそがAIの価値そのものです。私たちはそう信じて疑いません。「役に立つAI」は当然「良いAI」のはずです。
この結果を重視し実用性を何よりも尊ぶ精神。これこそ19世紀後半から20世紀にかけてアメリカで生まれたプラグマティズムという哲学の中心的な思想でした。
プラグマティズムはAI開発を駆動する現代の私たちの価値観を最も肯定してくれる哲学のように見えます。しかしその創始者たちは、もし今のAIの姿を見たら手放しでその「有用性」を称賛するでしょうか。あるいは彼らの哲学は、AIの「真の価値」を問うためのより深くより批判的な物差しを私たちに提供してくれるのでしょうか。
「それは、何をもたらすか?」- プラグマティズムの精神
プラグマティズムはヨーロッパの伝統的な哲学とは少し毛色が違います。プラトンの「イデア」やカントの「物自体」といった永遠で抽象的な「真理」を探求するのではなく、プラグマティズムの哲学者はもっと現実的で地に足のついた問いを立てました。すなわち「その考えは、私たちの具体的な生活の中でどのような『違い』をもたらすのか?」と。
- チャールズ・サンダース・パースの「プラグマティックな公理」 プラグマティズムの創始者であるパースは、ある観念の「意味」とはその観念が私たちの実践においてどのような「効果」をもたらしうるか、その効果の総体であると考えました。例えば「水」という観念の意味は、「喉の渇きを癒す」「火を消す」「凍ると滑る」といった具体的な効果の中にこそ見出されるのです。
- ウィリアム・ジェイムズの「真理の現金的価値」 ジェイムズはこの思想をより個人的な「真理」の領域へと押し進めました。彼にとってある信念が「真理」であるかどうかは、その信念を持つことが個人の人生においてどのような「現金的価値(キャッシュ・バリュー)」、すなわち肯定的で実践的な利益をもたらすかによって決まります。もしある信念があなたをより強くより幸福な人生へと導いてくれるなら、それはあなたにとって「真実」なのです。
- ジョン・デューイの「道具主義」 そしてプラグマティズムを教育や民主主義といった社会的な領域で展開したのがジョン・デューイです。彼にとって思想や理論とは、私たちが環境の中で出会う具体的な問題を解決するための「道具(インストゥルメント)」に他なりません。良い思想とは問題を上手く解決できる優れた「道具」です。悪い思想とは役に立たない「道具」です。考えることの目的は、より知性的に世界を渡っていくことなのです。
「役に立つ」という、両刃の剣
このプラグマティズムの視点から見れば、AIはまさに「究極のプラグマティックな道具」に見えます。
AIの価値はその抽象的な理論ではなく、それがもたらす具体的な「結果」によってのみ判断されます。医療AIは病気を正確に診断できるか。物流AIはサプライチェーンを効率化できるか。その「有用性」がすべてです。シリコンバレーの「まず作ってみて世界がどう反応するかを見よう」という精神は極めてプラグマティックであると言えるでしょう。
しかしデューイのような真のプラグマティストは、決してそこで思考を止めません。彼らはより深く、そしてより社会的な問いを投げかけるはずです。
「そのAIは一体『何のために』そして『誰のために』役に立っているのか?」と。
- 問い1:「何のために、役に立つのか?」 例えばSNSのアルゴリズムは、「ユーザーの滞在時間を最大化する」という設定された目的のためには驚くほど「役に立って」います。それは完璧に機能する「道具」です。しかしその「有用性」がもたらした具体的な「結果」は何だったでしょうか。社会の分断、人々の不安の増大、そして偽情報の拡散。プラグマティストはこの意図されざる否定的な「結果」全体を見つめ、こう結論するでしょう。「このAIは機能的には『役に立つ』かもしれないが、健全で民主的な社会を築くというより大きな目的のためには『悪い道具』である」と。
- 問い2:「誰のために、役に立つのか?」 工場に導入された自動化AIは企業の利益を最大化するという意味で、経営者にとっては非常に「役に立つ」道具です。しかしそれによって職を失った労働者や衰退した地域社会にとって、そのAIは本当に「役に立つ」存在だったのでしょうか。民主主義と人々の共同的な経験を重んじたデューイならこう主張するはずです。あるテクノロジーが本当に「善い」と言えるのは、その肯定的な「結果」が社会の隅々まで広く共有され、共同体全体の「成長」に貢献する場合だけだと。
「良いAI」を測る、プラグマティックな物差し
では、プラグマティズムの哲学はAIの真価を測るためのどのような「物差し」を私たちに与えてくれるのでしょうか。
- それは現実の人間的な「問題」を解決しているか?それともただ新たな欲望を人工的に作り出し、それをビジネスにしているだけか。
- その「結果」の全体像はどうか?目先の利益や効率だけでなく、長期的で意図されざる社会的・心理的な影響はどのようなものか。
- それは人間の「成長」や「探求心」を促しているか?デューイにとって道具の目的は、私たちをより優れた「問題解決者」にすることでした。AIは私たちをより賢くより好奇心旺盛にするか。それとも受動的で思考停止した依存的な存在にしてしまうか。
- その「恩恵」は民主的に共有されているか?それは多くの人々に力を与えるか。それとも富と権力を一部の少数の手にさらに集中させるだけか。
結論:単なる「有用性」の、その先へ
表面的に見ればプラグマティズムは、「役に立てばそれでいい」という現代のテクノロジー開発の精神を後押ししているように見えます。
しかしその哲学の奥深くを覗き込めば、そこには極めて倫理的で社会的な深い洞察が横たわっていました。彼らにとって「何が役に立つか」とは狭い技術的な問いではありません。それは「すべての人々にとって、より善く、より知的で、より民主的で、より豊かな人間的経験を創造するために、何が役に立つのか?」という広大で人間的な問いなのです。
私たちを不幸で分断され愚かにするような「役に立つAI」は、プラグマティズムの最終的な分析において全くもって「役に立たないAI」なのです。
AIの真の価値は、その処理速度や問題解決の効率性によって測られるのではありません。それはそのAIがもたらす究極的な「結果」、すなわちそのAIが私たちにどのような「人間」を、そしてどのような「社会」を築くことを助けてくれるのかという点によってのみ測られるのです。
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