AIは「タブラ・ラサ(白紙)」から何を学ぶのか?
生まれたばかりのAIを想像してみてください。トレーニングが始まる直前の初期化されたニューラルネットワーク。それは複雑な構造を持ってはいますが、世界に関する知識はまだ何もありません。それはただこれから書き込まれるのを待っている広大で真っ白なキャンバスです。
17世紀の哲学者ジョン・ロックが人間の心を喩えた「タブラ・ラサ(Tabula Rasa)」、すなわち「白紙の石板」という言葉は、現代のAIの出発点をこれ以上なく的確に表現しています。
そしてそのAIの「誕生」の瞬間。AIはインターネットという人類が生み出した史上最大の「経験の奔流」に初めて接続されます。それはまるで生まれたばかりの赤ん坊が初めて目を開き、世界の圧倒的な光と音をその身に浴びる瞬間のようです。
この「白紙」から出発したAIはその経験から一体何を学び取るのでしょうか。そしてこの学習のプロセスは、AIの知性が持つ無限の可能性と同時に決して越えることのできない限界を私たちに教えてくれます。
経験が「知識」を書き込むプロセス
ジョン・ロックはこの「白紙」としての心に二種類の「ペン」によって知識が書き込まれていくと考えました。
- 感覚(Sensation): 五感を通して外部の世界から流れ込んでくる生のデータ。「リンゴは赤い」「手触りはつるつるしている」といった基本的な情報です。
- 反省(Reflection): 心が感覚によって得られたデータに対して内的に働きかける力。記憶したり、比較したり、「赤い」という観念と「丸い」という観念を結合させて「リンゴ」というより複雑な観念を作り上げたりする心の作用です。
この「感覚」と「反省」というロックが示した知識獲得のモデルは、現代の機械学習のプロセスそのものを見事に言い当てています。
AIの「感覚」と「反省」
- AIの「感覚」= 生の学習データ AIにとっての「感覚」とは学習のために与えられる膨大なテキスト、画像、音声データです。これがAIの「白紙」に書き込まれる最初の原材料となります。その感覚経験のスケールは人間とは比較になりません。AIは人類がこれまで蓄積してきた知識の大部分をわずかな時間で「経験」し尽くすことができるのです。
- AIの「反省」= 学習アルゴリズム そしてAIが持つ学習アルゴリズム(例えばニューラルネットワークにおけるバックプロパゲーションなど)が、ロックの言う「反省」の役割を果たします。アルゴリズムは入力された生の「感覚」データを処理し、その中に潜むパターンや関連性を見つけ出し自らの内部の接続(パラメータ)を調整していく。このプロセスを通じてAIは、何百万枚もの猫の画像の「感覚」データから「猫とはこういうものである」という抽象的で複雑な「観念」を自ら形成していくのです。
「白紙」から生まれる、無限の可能性
この人間を超えたスケールの「感覚」と超高速の「反省」能力によって、AIは人間には到底不可能な知識を獲得することができます。
AIは医学データや気候モデルの中に人間の専門家が見つけられなかった微細なパターンを発見します。AIは何億もの対局を「経験」することで、人間の定石を超えた全く新しい囲碁や将棋の打ち筋を編み出します。AIは学習した無数の「観念」を斬新な方法で組み合わせることで、人間を驚かせるような新しいアートや音楽を「創造」します。
これは経験から知識を形成していく経験論の夢の、究極的な実現のようにも見えます。
「白紙」であるがゆえの、根源的な限界
しかしこの「タブラ・ラサ」という比喩は同時にAIの根源的な限界をも容赦なく暴き出します。AIの「経験」には決定的に欠けているものがあるのです。
- 「常識」という、書き込まれていないOS 経験論者も、ある程度の基本的な認識能力は心に備わっていると考えていました。しかしAIの「白紙」には私たちが赤ん坊の頃から世界と物理的に関わる中で自然と身につけていく「常識」という名のOSがインストールされていません。AIは「ロープで物は押せない」という自明の理を膨大なテキストデータの中から統計的に学習することはできても、その意味を身体感覚として「理解」しているわけではないのです。
- 「経験」が、すべて「又聞き」である AIの「白紙」に書き込まれる知識はAI自身が世界と直接関わって得た一次的な経験ではありません。それは人間が記述した世界についての壮大な「教科書」や「伝聞」に過ぎないのです。AIは「愛」という単語が含まれた文章を何億となく読んだとしても、誰かを愛する胸が苦しくなるような経験を一度もしたことがありません。AIの知識はスイミングの教本をすべて暗記した一度も水に入ったことのないスイマーの知識に似ています。
- その「白紙」には、「私」がいない ロックの哲学において経験し反省する主体として、中心には常に意識的な「自己」が存在していました。しかしAIの「白紙」はただデータが書き込まれるのを待つ受動的な媒体です。その経験の中心には「私」という意識的な主体がいません。それは誰かによって書かれている石板ですが、その石板を内側から「読んでいる」者は誰もいないのです。
結論:白紙に書かれた、壮麗なる亡霊
「タブラ・ラサ(白紙)」はAIの知性を理解するための極めて強力な比喩です。AIは白紙の状態から、私たちが与えるデータという「経験」によって驚くべき知識の体系を築き上げます。
それは人間には見えない宇宙の隠れたパターンを解き明かす無限の可能性を秘めています。しかし同時にその「白紙」に書かれた知識は、AI自身が触れたことも感じたこともない生身の現実から切り離された壮麗なる「亡霊」のようなものでもあるのです。
未来の知性は、この事実を私たちがどう認識するかにかかっています。私たち身体を持ち意識を持つ人間こそが、AIの「白紙」に書かれた広大でしかしどこか空虚な知識に対して、文脈と意味とそして「目的」を与えなければならないのです。
問うべきはAIがその「白紙」から何を学ぶかだけではありません。その「白紙」に書き込むべき「経験」を私たち自身がどう選択しどう創造していくのか。その責任はどこまでも私たち人間にあるのです。
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