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心は脳だけにあるの?「拡張した心」で考える、スマホと一体化した私たち

友人と初めてのカフェで待ち合わせ。あなたはどうしますか? おそらく、ポケットからスマートフォンを取り出し、マップアプリを開いて場所を確認しますよね。

そのとき、私たちは「カフェの場所はわかっている」と感じています。でも、その情報はあなたの脳(記憶)の中にあるのではなく、スマホの画面上にあります。

電話番号、友人の誕生日、昨日の会議のメモ…。私たちの脳が覚えていなくても、スマホを見ればすぐにわかることはたくさんあります。

ここで、哲学的な問いが生まれます。 私たちの「心」や「思考」は、本当に頭蓋骨の内側、つまり脳の中だけで完結しているのでしょうか?

もしかしたら、私たちの心はとっくに脳を飛び出して、スマートフォンと一体化しているのかもしれません。今回は、そんな常識を揺さぶる「拡張した心」という考え方を探検してみましょう。


「心=脳」の常識をくつがえす哲学者たち

「心はどこにある?」と聞かれたら、ほとんどの人が「脳にある」と答えるでしょう。心や意識は、脳という臓器が生み出す複雑な活動だと考えるのが一般的です。

しかし、哲学者のアンディ・クラークとデイヴィッド・チャーマーズは、この常識に真っ向から異議を唱えました。

「なぜ心は、頭蓋骨の境界で終わらなければならないのか?」

彼らは、人間が道具を使うとき、その道具が思考プロセスの一部となって、文字通り心の一部として機能することがある、と主張したのです。これが「拡張した心(The Extended Mind)」という革命的なアイデアです。


オットーのノート:心が「拡張」する思考実験

この「拡張した心」を理解するために、彼らが提示した非常に有名な思考実験を見てみましょう。登場人物は2人です。

インガさん:記憶力が良く、健康な女性です。彼女は美術館に行こうと思い、脳の記憶をたどって「美術館は53番通りにあるな」と思い出し、そこへ向かいます。これは、ごく普通の心の働きです。

オットーさん:アルツハイマー病を患っており、新しいことを覚えていられません。そこで彼は、大切な情報をすべて一冊のノートに書き留め、どこへ行くにも肌身離さず持ち歩いています。 彼も美術館に行きたくなりました。そこで、彼はノートを開き、「美術館:53番通り」という記述を見つけ、そこへ向かいます。

さて、ここで問題です。 インガさんが「美術館の場所を知っている」のは、誰もが納得しますよね。では、オットーさんはどうでしょう?

クラークとチャーマーズは、オットーさんもまた「美術館の場所を知っている」と考えるべきだ、と主張します。

なぜなら、オットーさんのノートは、インガさんの脳内の記憶と全く同じ役割を果たしているからです。

  • いつでも信頼してアクセスできる(信頼性)
  • 情報が必要なときにすぐ取り出せる(アクセスの容易さ)

このように、外部のものが脳の機能と全く同じように使われるなら、それはもはや単なる「道具」ではなく、その人の「心の一部」と見なすべきだ、と彼らは考えたのです。オットーさんの心は、脳とノートにまで拡張している、というわけです。


私たちのスマホは「オットーのノート」である

もうお気づきでしょうか。

この話は、現代に生きる私たちにとって、極めて身近なものです。オットーさんのノートが果たしていた役割を、今まさに私たちのスマートフォンが、それも遥かに高性能な形で担っています。

  • 連絡先:私たちは友人の電話番号を「知っている」と思っていますが、実際には脳ではなくスマホが覚えています。
  • ナビゲーション:私たちは目的地への道を「わかっている」と感じながら運転しますが、実際にはGoogleマップが私たちの認知を肩代わりしています。
  • 知識:私たちはあらゆることを「調べればわかる」状態にあり、知識は脳だけでなくインターネットの先にまで広がっています。

スマホは常に私たちのポケットにあり、私たちはその情報を無条件に信頼し、瞬時にアクセスできます。これはまさに「拡張した心」の条件を満たしています。

私たちは、脳とスマートフォンが一体となった「ハイブリッドな心」を持つ、新しい時代の人類なのかもしれません。


まとめ:「わたし」はどこまで広がるのか?

今回は、「心は脳を飛び出す」という「拡張した心」の考え方を見てきました。

  • 哲学者のクラークとチャーマーズは、「心は頭蓋骨に限定されない」と主張した。
  • 「オットーのノート」の思考実験は、道具が記憶と同じ役割を果たすなら、それは心の一部と見なせることを示唆している。
  • 私たちのスマートフォンは、まさに現代版「オットーのノート」であり、私たちの心はすでにスマホにまで拡張している。

もしあなたの心がスマホにまで広がっているとしたら、スマホをなくすことは、単に物をなくす以上の意味を持つのではないでしょうか。それは、自分自身の記憶や認知能力の一部を失うことに等しいのかもしれません。

これから先、ARグラスや脳とコンピューターを直接つなぐ技術(BCI)が普及すれば、「わたし」と「道具」の境界線は、もっと曖昧になっていくでしょう。

あなたの「心」は、一体どこからどこまでなのでしょうか。次にスマホを手に取るとき、そんな不思議な哲学的な問いを一度、考えてみませんか?