AIが構築する「知」と「権力」【AIが導く監視社会とは】
AIがもたらす未来。それは一見すると解放の物語のように語られます。
知識は指先一つで誰にでも手に入る。退屈な仕事は自動化され、私たちはより創造的な活動に時間を使えるようになる。
しかしその輝かしい光の裏側で、私たちはある種の、静かでしかしどこまでも浸透してくるような新しい「権力」の気配を感じてはいないでしょうか。
私たちの行動は常にデータとして収集される。私たちの好みや思想はアルゴリズムによって分析され予測される。AIが駆動するシステムは、私たちが次に何を見るか、何を買うか、そしてどう行動すべきかを巧みにそして静かに形成していく。
この新しい権力は王様が振り下ろす剣のような分かりやすい暴力ではありません。 それはもっと巧妙でもっと日常的で、そして恐ろしいことに私たちが自ら喜んで参加してしまうようなそんな権力です。
この目に見えない権力の正体を根底から覆す全く新しい視点を提示したのが、フランスの哲学者ミシェル・フーコーでした。彼の思想はAI時代の「監視社会」を読み解くための最も強力な「ツールキット」となります。
「権力」は、至る所に存在する
フーコー以前、人々は「権力」とは王様や国家といった特定の「中心」が所有しているものだと考えていました。
しかしフーコーはその見方を根本から覆します。彼によれば「権力」とは、誰かが所有する「モノ」ではなく、社会のあらゆる場所に網の目のように張り巡らされた「関係性」そのものなのです。
そして彼の最も重要な発見は「権力」と「知」が決して切り離せないということです。両者は互いに互いを作り出し強化し合う、コインの裏表のような関係にあります。フーコーはこれを「権力/知」と呼びました。
「知」は決して中立で客観的なものではありません。
例えば精神医学という「知」は、「正常」と「狂気」という人間を分類する新しいカテゴリーを作り出します。そしてその「知」に基づいて「精神病院」という、特定の人間を隔離し管理する「権力」の装置が生まれるのです。
権力はただ私たちを抑圧するのではありません。権力は何が「真実」であるかを規定し、私たちに特定の「役割」を与え、そしてそれにふさわしい「主体」を「生産」するのです。
新しい権力の形 – 「パノプティコン」
フーコーはこの近代的で巧妙な権力のモデルとして、イギリスの哲学者ベンサムが考案した「パノプティコン」という一望監視施設の建築モデルを挙げます。
パノプティコンは円形の刑務所です。その中央には監視塔がそびえ、外周には独房がずらりと並んでいます。監視塔の中の看守はすべての独房の中を見ることができます。しかしマジックミラーなどによって独房の中の囚人からは、自分が今、看守に「見られているのかどうか」を知ることができません。
その結果、何が起きるか。
囚人は「いつ見られているか分からない」からこそ、「常に見られているかもしれない」と考え、自らの行動を常に律するようになります。彼は自らの内なる「看守」となるのです。
強制的な暴力ではなく、この「視線」の非対称性そのものが囚人を自発的に規律に従わせる。これこそがフーコーが見抜いた近代的な権力の恐るべき本質でした。
AIは、究極の「デジタル・パノプティコン」である
このパノプティコンのモデル。 それは現代のAI社会の姿をまるで予言していたかのようにあまりにも的確に描き出しています。
- 中央の監視塔: それは巨大テック企業や政府のサーバー群です。私たちのデータはすべてそこに集積され、アルゴリズムによって解析される。その内部は私たちからは決して見ることのできない不透明な「塔」です。
- 円周の独房: それは私たち一人ひとりのデジタル生活そのものです。スマートフォンでの検索履歴、SNSでの「いいね」、スマートスピーカーとの会話、そして街中の監視カメラ。私たちのあらゆる行動が私たちの「独房」をガラス張りにしていきます。
- 内面化された看守: そして私たちは囚人と同じように行動し始めます。 私たちは自分のデータが「見られているかもしれない」と知っているから、SNSへの投稿を自己検閲し、「過激だ」と思われるサイトへのアクセスをためらいます。アルゴリズムにより良い推薦をしてもらうため、あるいは「問題のある市民」としてフラグを立てられないように、私たちは自らの行動をAIが好むであろう方向へと自発的にチューニングしていくのです。
AIが「生産」する、新しい「真実」
フーコーの視点に立てば、AIはただ私たちを「監視」しているだけではありません。 AIは私たちに関する新しい「知」を「生産」し、それによって新しい「権力」を生み出しているのです。
例えば「信用スコア」や「ソーシャルスコア」と呼ばれるシステム。 AIは私たちのあらゆるデジタル行動を分析し、「あなたという人間は、これくらい信用できる」という一つの「スコア」を算出します。このスコアはもはや単なるデータではありません。それは「あなたは信頼できる人間か、リスクの高い人間か」という新しい「真実」を作り出すのです。
そしてこのAIによって「生産」された「真実」は、私たちがローンを組めるか、仕事に就けるかといった現実の生活を直接的に支配する「権力」となるのです。
この権力が巧妙なのは、それが抑圧的にではなく「生産的」に作用する点です。それは私たちに「ノー」と言うのではなく、私たちがより「良い市民」、より「健康な個人」、より「予測可能な消費者」になるように、優しくしかし執拗に促し続けるのです。
そして最も恐ろしいのは、私たちがその便利さと快適さと引き換えに、自ら喜んでその監視社会に参加してしまっているという事実です。
結論:デジタルな権力に、いかに「抵抗」するか
フーコーの哲学はこの網の目のように張り巡らされた新しい権力からの簡単な「逃げ道」を示してはくれません。
しかし彼の思想は抵抗のための最も重要な第一歩を教えてくれます。 それは「まずその権力の存在を認識すること」。そして「それを可視化し言葉を与えること」です。
私たちはAIが私たちについて作り出そうとしている「真実」に対して、常に批判的な「歴史家」でなければなりません。
「このAIの分類は、誰の利益になるのか?」 「このシステムによって、どのような行動が推奨され、どのような行動が排除されようとしているのか?」 「このAIが生み出す『知』は、一体どのような『権力』に奉仕しているのか?」と。
抵抗とはAIを破壊することではありません。 それはAIが規定する「真実」とは異なる「対抗的な知」を生み出し、システムが予期しないような新しい「生き方の実践」を試みることです。
フーコーは私たちにこう警告しているのです。 現代における自由のための最も重要な闘争の場所はもはや街頭のデモだけではない。それはデータストリームの中に、そして「私とは誰か」という「真実」を定義する権利を巡る闘いの中にこそあるのだと。
その定義をアルゴリズムに明け渡すのか、それとも私たち自身の手の中に取り戻すのか。その問いこそが今、私たちに突きつけられているのです。
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