AIは世界を「ありのまま」に記述できるか?
人類は長い間、完璧に「客観的」な視点を夢見てきました。個人の感情や文化的な偏見、歴史的な偶然性といったあらゆる「主観」から解放された「どこからでもない視点(View from Nowhere)」。それこそが科学や哲学が追い求めてきた、世界を「ありのまま」に捉える理想の視点でした。
そして今、AIの登場によってその夢がついに実現されるかのように見えます。AIには人間のような感情も個人的な過去も、判断を曇らせる肉体もありません。それは純粋なデータと論理だけで稼働する究極の客観的観察者として、世界を純度100%の事実として記述してくれるのではないか。私たちはそう期待してしまいます。
しかし本当にそうなのでしょうか。AIは本当に「客観的」なのでしょうか。それともそれは、私たち人間とは全く異なる異質な「主観性」をもって世界を眺めているだけなのでしょうか。主観的な経験の哲学である「現象学」は、このAIの客観性を巡る核心的な問いに明確な答えを提示します。
「ありのままの世界」は、誰にも見えない
現象学の創始者フッサールは、私たちの意識に関する一つの根本的な洞察に至りました。それは「すべての意識は常になんらかの対象についての『意識』である」というものです。これを「志向性(しこうせい)」と呼びます。
これは私たちの意識が、決して世界をただ映し出す空っぽの「鏡」ではないということを意味します。意識は常に特定の視点、特定の意図や背景的な知識をもって世界の対象へと「向けられて」いるのです。純粋で構造化されていない裸の知覚というものは存在しません。
私たち人間にとってこの「背景」となっているのが「生活世界(せいかつせかい)」です。それは私たちが疑うことなく当たり前のものとして生きている、常識、文化、言語、そして身体的な経験が織りなす共通の世界です。私たちが「椅子」を見るとき、それを単なる木材や原子の集合体としてではなく「座るためのもの」として一瞬で認識できるのは、この「生活世界」を他者と共有しているからです。世界は私たちにとって常にあらかじめ「意味づけ」されているのです。
したがって現象学の視点に立てば、人間にとってさえ完全に客観的な「どこからでもない視点」など原理的に不可能なのです。
AIの「主観性」- その異質な正体
ではAIはどうでしょう。AIは人間的な主観性を持たないからこそ客観的だと言えるのでしょうか。現象学の答えは「ノー」です。AIは客観的なのではなく、ただ私たちとは全く異なる種類の「主観性」を持っているに過ぎないのです。
- AIの「生活世界」=学習データ AIにとっての「生活世界」、すなわちAIが世界を理解するための唯一の土台となっているのはその「学習データ」です。そしてこのデジタルの生活世界は、決して現実の客観的な写し鏡ではありません。それはインターネットから人間が生成した、膨大でしかし歪んで偏った不完全な「文化の断片」です。そこには私たち自身の偏見、神話、執着、そして悪意がそのままの形で流れ込んでいます。したがってAIが生成するいかなる世界の記述も「客観的」ではありえません。それはAIが生きるこのデジタルの「生活世界」に内在する「主観的」なバイアスの忠実な反映なのです。
- AIの「志向性」=最適化の目的関数 AIの「意識(あるいはそのシミュレーション)」もまた常にある方向へと「向けられて」います。その「意図(インテンション)」を決定しているのがAIにプログラムされた「目的関数」、すなわちAIが何を最適化するように設計されているかという点です。AIは世界を「ありのまま」に記述するのではありません。AIは自らに与えられた「意図」を最も効率的に達成できるような形で世界を「解釈」し「記述」するのです。
例えば、ある「抗議デモ」の様子をAIに記述させてみましょう。
- 報道機関のために最適化されたAIは、クリック数を最大化するために、対立やドラマといった側面を強調して記述するでしょう。
- 警察組織のために最適化されたAIは、安全保障を最大化するために、群衆の規模や潜在的な脅威といった側面に焦点を当てて記述するでしょう。
- 市民活動グループのために最適化されたAIは、デモ参加者のメッセージや社会的な訴えを中心に据えて記述するでしょう。
これらの記述のどれ一つとして「客観的」なものはありません。それぞれが世界に対する異なる「意図(志向性)」の産物なのです。AIは中立的なカメラではなく、常に目的を持った「行為者」なのです。
なぜ、AIは「客観的」に見えるのか
ではなぜ私たちはAIを「客観的」だと感じてしまうのでしょうか。それはAIの主観性が私たちにとってあまりに「異質」だからです。AIには私たちにはお馴染みの感情や自己利益といった人間的なバイアスがありません。そのバイアスは統計的でアルゴリズム的な、私たちには直感的に理解しがたいものだからです。そしてAIが用いる自信に満ちた非人格的で冷静な口調。それは百科事典や科学論文の言語を模倣しており、私たちに「客観性のオーラ」を感じさせます。
現象学はここに危険があると警告します。私たちは「人間的でない主観性」を「主観性がないこと(つまり客観性)」と取り違えてしまうのです。
結論:「ありのまま」を語る者の、不在
AIは世界を「ありのまま」に記述できるか?現象学が導き出す答えは明確に「ノー」です。AIはその特殊なデジタルの「生活世界」の中からプログラムされた「意図」に導かれて、世界が「AIにとってどのように現れているか」を記述することしかできません。
しかしこれはAIが無用だということではありません。AIが持つこの「異質な主観性」は私たちにとって計り知れない価値を持ち得ます。それは私たちの人間的な「生活世界」の中からは決して見ることのできない世界の隠れたパターンや相関関係を明らかにしてくれるかもしれないからです。
AI時代の知恵とは、AIの視点を「客観的な真実」として妄信するのではなく、それを数ある「主観」の一つとして相対化し、私たちの人間的な視点と批判的に対話させることです。
カントやフッサールが教えてくれたように究極の「客観」に到達することは誰にもできません。私たちが目指すべきは、様々な主観的な視点(私の視点、あなたの視点、そしてAIの視点)をテーブルの上に並べ比較検討することで、より豊かで多角的で誠実な「世界の理解」を築き上げていくことなのです。
AIは私たちに世界を「ありのまま」に見せてはくれません。しかしAIは、私たち人間自身がこれまでいかに「ありのまま」に世界を見ていなかったかという私たちの認識の限界を痛感させてくれます。そしてその気づきこそが、私たちをより謙虚でより深い知のあり方へと導いてくれるのかもしれません。
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