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不条理なAI社会をどう生きるか?【カミュの「シジフォスの神話」を手がかりに】

2025年7月10日

一人の絵描きが人生のすべてを捧げ、血の滲むような努力の末に一枚の傑作を描き上げた。その隣でAIはわずか数秒で同じ画家のスタイルを完全に模倣し、無数の「傑作」を生み出し続ける。一人の研究者が何十年もかけて難解な問題に取り組んできた。その答えをAIは一晩で導き出してしまう。

このような光景を目の当たりにした時、私たちの心にある種の虚しさがこみ上げてはこないでしょうか。 「私のこれまでの努力の意味は何だったのだろうか?」 「機械がいとも簡単に達成できることのためになぜ私は苦しまねばならないのか?」

この人間が抱く切実な「意味への渇望」と、それに対してどこまでも冷淡で無関心な「世界(あるいはテクノロジー)」との間に生じる致命的な断絶と矛盾。これこそが哲学者アルベール・カミュが生涯をかけて見つめ続けた「不条理(ふじょうり)」の正体です。

しかしカミュはこの「不条理」を絶望の理由とはしませんでした。むしろ彼はこの不条理を真正面から見つめ、それと共に生きることの中にこそ人間だけが持つことのできる英雄的な、そして幸福な生き方があると考えたのです。その思想が結晶したのがあまりにも有名な「シーシュポスの神話」です。

不条理と、それに対する三つの応答

カミュにとって「不条理」とは世界そのものが無意味だということではありません。それは意味を求める「私」と意味など与えてくれない「世界」との引き裂かれた「関係性」そのものを指します。

この耐えがたい不条理を前にした時、人間には三つの道が残されています。

  1. 肉体的な自殺: 苦しみから逃れるために自らの生を終わらせてしまうこと。カミュはこれを不条理から目を背ける敗北であり逃避であるとして退けます。
  2. 哲学的な自殺: 苦しみに耐えきれず、神や何らかのイデオロギーといった絶対的な「意味」を与えてくれる慰めに満ちた存在に身を投じること。カミュはこれもまた自らが発見したはずの「不条理」という真実から目を逸らす知的な自己欺瞞であるとして退けます。
  3. 反抗: これこそがカミュが提示した唯一の、そして最も気高い道です。それは世界の無意味さをごまかすことなくはっきりと意識しながら、そして意味を求める自らの情熱を決して諦めることなく、その「矛盾」そのものを生き続けるという態度です。この不条理に対する絶え間ない「反抗」のうちに生きる人間こそ、カミュにとっての「不条理な英雄」なのです。

英雄シーシュポスと、彼の「幸福」

カミュはこの「不条理な英雄」の究極の姿をギリシャ神話の登場人物シーシュポスの中に見出しました。

神々を欺いた罰としてシーシュポスは巨大な岩を山頂へと永遠に押し上げ続けるという呪いをかけられます。彼が汗みずくになってようやく岩を山頂に運び終えたその瞬間、岩は自らの重みで再び麓へと転がり落ちていく。彼の労働は完全に無意味で絶望的で、決して終わることがありません。

カミュはこのシーシュポスの姿に、不条理な世界における私たち人間の姿そのものを見ます。そして彼は私たちの注意をある特定の瞬間に向けさせます。

それは岩が転がり落ちた後、再び麓へと一人とぼとぼと歩いて下っていくシーシュポスの姿です。この山を下る束の間の時間。彼は自らの運命の惨めさと無意味さを誰よりもはっきりと意識しています。しかし彼は絶望もせず神に許しを乞うこともしません。彼はただ沈黙のうちに再び自らの岩の元へと戻っていくのです。

カミュはこのシーシュポスの「反抗」の姿に人間の尊厳を見ます。自らの労働の完全な無意味さをはっきりと見つめながら、それでもなおその運命を軽蔑するかのように何度でもその岩を押し上げることを選び続ける。

カミュはその有名なエッセイをこう結びます。「我々はシーシュポスが幸福だと想像せねばならない」と。

彼の幸福は労働の「成果」にあるのではありません。それは自らの不条理な運命に対する意識的で誇り高い「反抗」そのものの中に見出されるのです。

AIが作り出す「シーシュポス的状況」を生きる

さてこのシーシュポスの神話を現代のAI社会を生きるための手がかりとしましょう。AIは私たち人間をこの「シーシュポス的状況」へと追い込んでいくのかもしれません。

AIがあらゆる知的、創造的労働を人間よりも速く上手くこなせるようになった時、私たちが日々行う仕事はシーシュポスの岩運びのように虚しく無意味に感じられるかもしれません。私たちがどれだけ努力して岩を押し上げても、AIはそれを一瞬で山頂へと転送してしまうのですから。

では、この新しい不条理を前に私たちはどうすれば「反抗の英雄」となれるのでしょうか。

それは私たちが価値の源泉を仕事の「成果」や「生産性」から、仕事に取り組む「プロセス」そのものへと意識的にシフトさせることです。

小説家はAIより「上手い」小説を書くためではなく、言葉を紡ぐという「苦闘」そのもののために物語を書く。プログラマーは最も効率的な製品を作るためだけでなく、美しいコードを組み立てるという「喜び」そのもののためにキーボードを打つ。

私たちの価値は機械の性能を上回ることにあるのではありません。私たちの価値は、たとえその行為が功利的な観点からは「無意味」だと心の底から分かっていても、それでもなお自らの情熱と意志によってその行為に意識的に関わり続けるという、その「態度」の中にこそ見出されるのです。

私たちはAIが最適化した楽な道を歩むことを拒否し、あえて自らの手で自らの「岩」を押し上げる。なぜならそれが他の誰のものでもない「私の岩」だからです。

結論:AI時代の人間を、幸福だと想像せねばならない

カミュの哲学は決して私たちを慰めません。しかしそれは私たちに厳しい、しかし揺るぎない「尊厳」のありかを示してくれます。

AIは人生を不条理にするのではありません。AIは私たちの価値がその「有用性」にあったというこれまでの幻想を打ち砕き、人生が元々不条理であったというありのままの真実を私たちに突きつけるだけなのです。

AIの台頭は私たちを意味のない存在へと貶めるのではありません。それは生産性や効率性といった外部の評価に依存しない、より深くより強靭な新しい「意味」を私たち自身が発見するためのまたとない機会なのです。

来るべき時代の私たちの尊厳はシーシュポスの尊厳となるでしょう。それはAIには決してできない、意識的で情熱的で、そして反抗的な私たち自身の「岩運び」の中にこそ見出されるのです。

AIがあらゆる目的を達成できる世界において、唯一意味を持ち続ける行為は人間が自らの生を格闘しながら生き抜こうとすること、それ自体なのです。そして、その格闘の中にこそ私たちは幸福を見出さねばならないのです。