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AIに支配されない「自由」と「責任」

2025年7月10日

「あなたへのおすすめ」「最適なルート」「パーソナライズされたニュース」 私たちは日々、AIが差し出す無数の「賢い選択」に囲まれて生きています。それは私たちの生活を驚くほど便利で快適なものにしてくれました。しかしその快適さの裏側で、私たちは最も人間的な能力の一つを少しずつAIに明け渡しているのかもしれません。

それは、「自ら選択する」という能力です。

AIが提示する「最適解」に無意識に従い続ける時、私たちの人生は本当に「私たち自身のもの」と言えるのでしょうか。それとも私たちは自らの人生の「運転席」を、知らぬ間にAIという名の優秀な自動操縦システムに譲り渡してしまっているのでしょうか。

この人間にとっての「自由」とそれに伴う「責任」の重みを、これ以上ないほど真剣にそして痛切に見つめたのが実存主義の哲学者たちでした。彼らの思想はAIに「支配」されないための、そして主体的な人生を取り戻すための力強い覚醒の呼びかけとなります。

「人間は、自由という刑に処せられている」

ジャン=ポール・サルトルは衝撃的な言葉で人間の置かれた状況を表現しました。「人間は、自由という刑に処せられている」

これは一見、矛盾した言葉に聞こえます。なぜ素晴らしいはずの「自由」が「刑罰」なのでしょうか。サルトルによれば神が存在せず、あらかじめ定められた「人間の本質」もない以上、私たちは自らのあらゆる行動を自分自身で「選択」する以外にありません。そしてその選択から逃れることは絶対にできないのです。

「何を信じるか」「どう生きるか」「どんな人間になるか」。そのすべてが私たちの肩に重くのしかかっている。誰のせいにも、神のせいにも、運命のせいにもできない。自分の人生の全責任を自分自身で引き受けなければならない。このあまりにも重くそして孤独な責任。それこそが「自由という刑」の正体です。

多くの人はこの責任の重さに耐えきれず自由から逃げ出そうとします。「社会がこうだから」「みんながそうしているから」「上司の命令だから」と自らの選択を他人のせいにしようとする。サルトルはこの自己欺瞞の状態を「自己投企(じことうき)」の放棄と呼び、厳しく批判しました。

AIは、史上最高の「自由からの逃避路」

この実存主義の視点に立つと、現代のAIはこの「自由の重荷」から逃れたいと願う私たちにとって、史上最高に魅力的でそして危険な「逃避路」として現れます。

  • 「選択」の責任を、AIに転嫁する 「どの株を買うべきか」「どの大学を選ぶべきか」。人生の重要な選択の場面で、私たちはAIが弾き出した「データに基づいた最適解」にその判断を委ねたくなる誘惑に駆られます。もしその選択が失敗したとしても、「AIがそう言ったのだから仕方がない」と責任を回避することができるからです。
  • 「考える」という、苦役からの解放 自らの価値観を築き何が正しいかを判断するのは骨の折れる苦しい作業です。AIはその「考える」という苦役を肩代わりしてくれます。AIが要約したニュースを読み、AIが推薦する意見に頷く。私たちは自らの頭で考えることなく、世界を理解した「つもり」になることができます。
  • 「不安」という、自由の代償からの逃げ道 自由な選択には常に「間違っているかもしれない」という不安が付きまといます。AIはその不安を「確率」や「予測」といった客観的に見えるデータで和らげてくれます。私たちはAIが示す「確からしさ」に寄りかかることで、選択の不安という実存的なめまいから目を逸らすことができるのです。

このようにしてAIは、私たちが「自由という刑」から逃れるための完璧なアリバイ工作を手伝ってくれるのです。しかしその代償はあまりにも大きい。それは私たち自身の「主体性」そのものです。

「アンガージュマン」- AI時代における、主体性の回復

では、どうすれば私たちはAIの奴隷となることなく自らの人生の主人であり続けられるのでしょうか。サルトルはその答えとして「アンガージュマン(engagement)」という概念を提示しました。

「アンガージュマン」とは社会参加や政治参加と訳されることが多いですが、その根底にあるのは「主体的な自己拘束」というより広い意味です。それは自らの自由を自覚した上で、あえて特定の状況の中に自らを「投企」し、その選択に全責任を負うという決意です。

AI時代における「アンガージュマン」とは、AIの答えをただ受動的に受け入れるのではなく、それに対して意識的にそして主体的に「関わっていく」態度を意味します。

  • AIの答えを「出発点」として使う AIが「これが最適です」と示してきたとしてもそれを最終結論としない。「なるほど、AIはそう考えるのか。では私はどう考える?」と自らの思考の「出発点」としてそれを利用するのです。
  • あえて「非合理」な選択をする勇気 AIが効率性や合理性の観点からある道を推奨してきたとしても、あなた自身の直観や価値観が別の道を指し示しているのなら。そのAIから見れば「非合理」な道をあえて選び取る勇気を持つこと。その選択の根拠はあなた自身の「実存」の中にしかありません。
  • 自らの選択に「責任」を引き受ける覚悟 AIのアドバイスを参考にしたとしても、最終的にその決断を下したのは他の誰でもないあなた自身です。その選択がどんな結果を招こうとも、「これは私が選んだことだ」とその責任を潔く引き受ける覚悟。その覚悟こそがあなたを単なるAIのユーザーから人生の「主体」へと引き戻します。

結論:自由の重さから、逃げないこと

AIは私たちにかつてないほどの「便利さ」と「効率」を与えてくれます。しかし実存主義は私たちに警告します。人生の価値は便利さや効率の中にあるのではない、と。

人生の価値は、たとえそれがどれほど不器用で間違いだらけであったとしても、自らの「自由」を行使しその「責任」を引き受け、自分自身の物語を自らの手で紡いでいく、その苦しくも輝かしいプロセスの中にこそ宿るのです。

AIに支配されないための唯一にして最強の方法。それはサルトルが突きつけたあの根源的な事実から決して目を逸らさないことです。

すなわち「私の人生のすべての選択の責任はこの私にある」と。

その重く、しかし人間だけが持つことのできる尊い責任を胸を張って引き受けること。それこそがAIのアルゴリズムに決して支配されることのない私たちの「自由」の最後の砦なのです。