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AIが昇進を決めるなら?人事評価に潜む、AIのワナをどう乗り越えるか

序章:ブラックボックス化する「人の価値」― 新たな格差の源泉

人事評価の歴史は、常に「客観性」と「公平性」への渇望の歴史でした。私たちは、評価者の主観や感情、個人的な好き嫌いといった、人間的な「バイアス」をいかに排除し、公正な評価を下すかという難問と、長らく戦い続けてきました。

そして今、AI(人工知能)が、この長年の課題に対する「最終解答」であるかのように登場しました。AIは、個人のパフォーマンスデータを24時間365日収集・分析し、一切の情実を挟むことなく、客観的なスコアを算出する。それは、人事評価におけるバイアスからの解放を約束する、輝かしい福音のように見えます。

しかし、本記事の目的は、この耳触りの良い「AI評価」という神話に警鐘を鳴らし、その裏に潜む、より深刻で、より根源的な「哲学的なワナ」を白日の下に晒すことにあります。

結論を先に申し上げます。AIによる人事評価への無批判な依存は、客観性への道ではなく、人間の価値を「測定可能なもの」へと矮小化し、組織の魂を蝕む「新たな独裁」への道です。AIが昇進を決定する未来は、公平なユートピアではなく、人間性が疎外されたディストピアに行き着く危険性を、色濃く内包しています。

本記事では、AI評価に潜む4つの致命的な「哲学的ワナ」を解き明かし、AIを冷徹な「裁判官」ではなく、賢明な「診断医」として活用するための、「人間中心の評価」フレームワークを提言します。


第1のワナ:客観性という幻想 ―「測定できるもの」が「重要なもの」を喰い尽くす

  • AIの約束: データに基づいた、客観的で公平な評価。
  • 哲学的背景(ポジティビズムの罠): これは、「観測・測定できるものだけが、真に存在する」と考える、科学における実証主義(ポジティビズム)の発想に基づいています。しかし、人間の価値は、測定できるものだけで構成されているわけではありません。
  • 罠の本質: AI評価システムは、必然的に「定量化しやすいもの」を偏重します。売上実績、契約件数、処理したチケット数、コードの行数、ログイン時間。これらは全て、AIが容易に測定できるパフォーマンス指標です。 一方で、測定が困難な、しかし組織にとって極めて重要な活動は、評価の対象から抜け落ちていきます。
    • 後輩の相談に乗り、親身にメンタリングする時間。
    • 部署間の対立を、粘り強く調整し、見えないところで信頼関係を築く努力。
    • 会議の場で、あえて空気を読んで異論を唱え、チームの思考の暴走を食い止める勇気。
    • 顧客の言葉にならない不安を察知し、先回りしてサポートする気遣い。
    • これらは全て、実践知(フロネーシス)や人間的徳性(アレテー)の発露ですが、AIのデータ上では「非生産的な時間」として記録されるか、あるいは全く観測されません。
  • もたらされる悲劇: 組織は、「測定できるものが、重要なものである」という倒錯した価値観に支配されます。社員は、AIの評価指標をハックすることに最適化しはじめ、誰も見ていない場所での利他的な行動や、長期的な信頼関係の構築といった、測定不能な「徳」を積むことをやめてしまいます。結果として、組織は表面的には効率的に見えながら、その内側から、人間的な温かみや結束力という、真の競争優位性を失っていくのです。

第2のワナ:過去のデータによる独裁 ― イノベーションを殺害し、多様性を圧殺する

  • AIの約束: 過去の成功パターンを学習し、将来成功する可能性の高い人材を発掘・昇進させる。
  • 哲学的背景(帰納法の限界): これは、過去の事例から未来を予測する「帰納法」に基づいています。しかし、哲学者のデイヴィッド・ヒュームが指摘したように、過去がそうだったからといって、未来もそうであるという論理的保証はどこにもありません。
  • 罠の本質: AIは、過去に昇進した人々のデータセット(学歴、職歴、過去の評価、行動パターンなど)を学習し、「成功者のモデル」を構築します。そして、そのモデルに最も近い人物を高評価します。これは、2つの致命的な欠陥を生みます。 1. イノベーションの殺害: 過去の成功モデルに当てはまらない、異端児、変革者、未完の大器といった「規格外の人材」は、AIによって「異常値」として弾かれます。AIは、既存の枠組みの中で最適化を行うことは得意ですが、その枠組み自体を破壊するような、真のイノベーターを育成・評価することは原理的に不可能です。AIによる評価は、組織を「過去の成功体験」という牢獄に閉じ込め、未来への適応能力を奪います。
  • 2. 偏見の再生産と増幅: 過去の人事データに、人間の無意識のバイアス(性別、人種、出身大学などに関する偏見)が含まれていた場合、AIはそのバイアスを忠実に学習し、「客観的なデータ分析の結果」という、極めて性質の悪いお墨付きを与えて再生産します。人間によるバイアスは、異議申し立てや議論の対象となり得ますが、ブラックボックス化されたアルゴリズムによる差別は、より陰湿で、覆しがたいものとなる危険性があります。

第3のワナ:人格と徳の無視 ―「有能なサイコパス」が報われるシステム

  • AIの約束: 個人的な感情を排し、純粋な「成果」に基づいて評価する。
  • 哲学的背景(徳倫理の欠如): アリストテレス以来の徳倫理学が明らかにしてきたように、人間の評価とは、単なる「何をしたか(成果)」だけでなく、「どのような人間か(人格・徳)」という問いを不可分に含んでいます。
  • 罠の本質: AIは、個人の成果(What)を測定することはできても、その成果がどのような「やり方」によってもたらされたかを評価できません。 例えば、2人の営業担当者が、同じ「売上1億円」という成果を上げたとします。
    • Aさん: チームメンバーの成功を助け、情報をオープンに共有し、顧客からの深い信頼を得ることで、持続可能な形で成果を上げた。
    • Bさん: チームの手柄を独り占めし、情報を隠蔽し、顧客を半ば騙すような形で、短期的な成果を上げた。 AIの評価システム上では、この2人は「同等の成果」を上げた優秀な社員です。むしろ、Bさんのような個人プレーに徹した「有能だが、組織を蝕む人物」の方が、個人の評価は高くなる傾向さえあります。
  • もたらされる悲劇: このようなシステムは、倫理観や協調性を軽視し、短期的な成果のためには手段を選ばない利己的な行動を助長します。結果として、組織の文化は荒廃し、誠実な社員は疲弊して去り、長期的には組織全体のパフォーマンスが低下するという、致命的な結末を迎えます。

第4章:「人間中心の評価」を取り戻すためのフレームワーク

では、我々はAIを人事評価から完全に排除すべきなのでしょうか。答えは否です。AIを「冷徹な裁判官」から「賢明な診断医」へと役割転換させることで、人間とAIの協働による、より良い評価は可能です。

原則①:AIは「裁判官」ではなく、「診断医」である

  • アクションプラン: AIの最終的なアウトプットを、「昇進確率85%」といった断定的なスコアではなく、「観察される事実と、留意すべき点」をまとめた「診断レポート」として位置づけます。AIの役割は、あくまで人間の判断を補助するための、客観的なデータ(体温や血圧のようなもの)を提供することに限定します。最終的な「診断(評価)」を下すのは、必ず人間であるべきです。

原則②:データは「人間による審議」にかけられて初めて意味を持つ

  • アクションプラン: 「評価校正会議」を制度化します。そこでは、AIが提示した「診断レポート」をたたき台に、複数のマネージャーが、それぞれの人間的な視点(暗黙知やフロネーシス)から、評価対象者について多角的に議論します。「AIのデータでは彼の貢献度は低いが、それは彼がチームの“縁の下の力持ち”として、測定不能な調整役を担っているからだ」といった、文脈を補正する「審議」こそが、評価の質を担保します。

原則③:「徳」を評価する仕組みを、公式に導入する

  • アクションプラン: パフォーマンス評価とは別に、「バリュー&ビヘイビア評価」を導入します。360度評価などを活用し、「彼は、困難な状況で誠実な行動をとったか」「彼は、チームの成功のために、自分の利益を後回しにすることがあったか」といった、組織が大切にする「徳」に関する問いを、評価の公式な一部として組み込みます。そして、この定性的な評価を、定量的なKPIと同等、あるいはそれ以上に、昇進・昇給の判断において重視することを、全社的に宣言します。

最終提言:人の価値を問う、リーダーの覚悟と責任

AIを人事評価に導入することは、単なる業務効率化ではありません。それは、「我々の組織は、人間の何を評価し、何を価値あるものと見なすのか」という、極めて哲学的な問いに対する、会社の姿勢表明そのものです。

AIは、社員の「パフォーマンス」を測定する、比類なきツールとなり得ます。 しかし、社員の「価値」を測定することは、決してできません。

人の価値を、その人の成果、人格、潜在能力、そして尊厳の全てを考慮して、総合的に判断するという、この最も重く、最も人間的な責務から、リーダーは決して逃げてはならないのです。

AIを、あなたに代わって判断を下す「主人」として玉座に据えるのではなく、あなたの判断を助ける「有能な家臣」として傍らに置き、あなた自身の人間的な知恵、倫理観、そして勇気をもって、最終的な判断を下してください。

それこそが、AI時代に、組織がその魂を失わずに成長するための、唯一の道なのです。